運動会は必要か?運動会は何のため?でも子ども達は本当に頑張っている!

詳細は伏せるが、ワケあって小学校で息子たちの姿を見ることが多い私。今は、運動会の練習の真っ最中。
この記事では、公立小学校の運動会の練習を見て思った感想を記載しています。
不適応を起こしたのは
小学校というシステムの中に、大昔の幼い私は居たの?とビックリするぐらい、私が不適応をおこしております・・・。
(記憶がほとんどありませんが、小1、2年の頃は特に学校は嫌いでした。友達なんて一人もいなかった。いわゆる行きしぶりをしていたと思うし、学校でほとんど話さなかったと思います・・・小4ぐらいから友人ができて明るい方向へ変わっていった気がします)
我が息子は、悲しいかな(笑)馴染んどるっ!!!・・・完全に体制派。
恐怖政治
運動会関係なく、一学期から思っていたこと。教室内で先生が叱って 怒鳴って恐怖で子ども達を統制していて、本当にそれは辞めて欲しい(※)。
※叱ること、注意することは必要だと思っています。ただ、「○○くん!」とか「あなただけできてないよ」とか怖い声、大きな声を出して威嚇して恐怖で統制するのが納得できません。息子は、なぜ怒られているのか、理由すら理解していません。ただ怖いから従っているだけです。
保護者として、大きな違和感と受け入れがたさがあったが、学級崩壊を起こさないためには、ある程度は必要なのだろうと思うようにしていた。
何より、周りの保護者がそう思っている・・・。
しかし。
軍隊?

運動会の練習が軍隊のようだ。
こんなにひどかったっけ・・・
なんで、先生達はあんなに怒って怒鳴ってるのだろう。
運動会をする理由は?
そもそも、どうして運動会をするのだろう。
子どもたちは、やりたいかどうかなんて、気持ちを聞かれていないよね。
先生が決めたことをやってるんだよね。
この運動会は、「親に見せるために」先生が頑張っている気がする。
子どもたちには、主体性のかけらもない。
こんな運動会だったら、やらなくて良いよって思ってしまった。
ありえない先生の怒り
練習内容は、1年生と2年生が合同で行うダンス。
白線で円を書こうとした2年生の先生(女性)が、円を書こうとした所に生徒が座っており(※踊りのフリがそこに座って踊るものだったから)、生徒が動かなかったら、「どけーーーーー!」とすごい剣幕で怒鳴ってた。
先生は、「どいてね」などと一切言葉でお願いしていない。子どもたちは先生の動きの一挙手一投足に注意を払い、自分の背後で無言で白線を引こうとしたら速やかに気づいて腰をあげねばならぬ。
先生はこの場合、「線を引くからどいてね」とか、せめて「はい、どきます」とか、言うべきだ。
そんな「どけー!」なんて大声で怒鳴らなければならない事を、誰かがしたとは思えない。
先生のその態度は、「すぐ怒っていい」ということを子どもたちに示していませんか?
先生、心を一つにするってなんですか
1年生の先生は、運動会では「ココロを一つにする」って言っていたけど、踊りを頑張ることがどうしてココロを一つにすることに繋がるんだ。
まだ、お互いの感想を言い合うとか、どうすればより良くなるか話し合うとかの方が、クラスメートへの理解に繋がるし、ココロを一つにするという手段になるのではないか。
先生の怒声による指示に一方的に従って、 アイドルの曲に合わせて先生が考えた振り付けで美しいマスゲームを親に見せることが、どうしてココロを一つにすることになるんだ。
部活を頑張るとかはまだ分かるけど・・・
みんなが一応、自分の意志で選択した部活で、勝利など共通の目的のために頑張る、というのはまだ理解できる。例えば、演奏したり合唱したりは、曲への理解など、ココロを一つにする手段も意義もある。
上手く説明できないけど、
6年生の組体操を格好いいと思って憧れて頑張る、などはまだ意義があろう。
本人のやりたい気持ちが土台にあって、成長することへの憧れもあって、何より、ある程度の運動機能が培われていないとできないものだから。特に、なぜ組体操をやるのかとか、より良くするにはどうしたらいいのかとか、 お互い話し合う良い教材になると思う。そういった中で、思春期の子たちは自分自身のモノの見方、考え方、感じ方を発見もできるだろう。
でも、「やりたくない」という選択肢もあっていいんじゃないかと思う。
先生たちは、あの軍隊式で、生徒たちに何を学んで欲しいんだろう。。。
全体主義の残骸
恐怖で支配する教室。
なんで、こんな運動会をするんだろう。
なんで、踊るんだろう。
誰か論理的に説明してください。
運動会は不要、とは言わない。
楽しい思い出もあるし、やる意味がまったくないとは思わない。
でも、あんな風に従わせなくていいのではないか。
全体主義でどこに行きたいのだろう。
息子が通っていた幼稚園では
私がこう強く思う理由の一つに、息子が通っていた幼稚園との差が大きいことがある。
そこは、親に見せるための運動会、作品展、劇の会などを一切しない園で、親にも常々説明されていた。
また、成果だけじゃなく、そのプロセスにこそ意味があると。できる、できないじゃない。例えば、運動会の踊りも保育で行われているゴッコ遊びの延長だ。物語の中で子どもたちは役になりきって楽しんで踊る。もちろん、やりたくない子もいるし、特性でできない子もいる。そして、やらない権利を保証されていた。参加できない子に関しては、クラス全体で親が懇談会で悩みを共有してきた。自分の子どもだけでなく、クラスメートの子の育ちも一緒に見守ってきた。
最年長のクラスでは、伝統舞踊を運動会で踊ったが、園はかなりの時間をかけて子どもの憧れを掻き立てる。本人達がやりたいと思わせるしかけを、時間をかけて大人が作ってやる。それは作為的なのかもしれないが、結局、本人達の興味がモチベーションの元にあるとないとでは、そのプロセスだけでなく成果まで大いに変わってくると思う。
リレーも行ったが、自分達は勝ちたいのか、勝つためにはどうしたらいいのか。2番じゃだめなのか、負けた時にどうやって気持ちを持っていくのか。まだ5歳6歳でも、きちんと話し合いを行っていた。時間をかけて。チームとして他人を応援すること。相手のチームでも良い所を認めること。色々な学びが本当にたくさんあった。中身の濃い幼稚園生活だった。。。
この経験が、今の恐怖支配に対するアレルギー反応を強くしていることは間違いない。
さいごに
さて、小学校の運動会に話を戻して・・・。
子どもたちは、暑い中、文句も言わず頑張ってる。
でも、文句言わないのってどうなの?
だから、言われたことしかできない子になってしまうんじゃないの?
近年、文科省はアクティヴ・ラーニングを推奨しているんじゃないの?
こんなに受動的な学びでいいのかい。
ということを、私はブログで書くだけは嫌なんです。。。
もっともっと先生達と信頼関係を築いて、いつか話してみたい。
何年かかるか分からないけど問うてみたいと思っています。
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